自由民権資料館常設展示「自由民権運動と町田」その2

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更新日:2023年4月18日

「町田の民権家たち」(町田の民権家紹介ゾーン)

明治10~20年代に全国的に拡大した自由民権運動は、現在の町田市域でも盛んに展開しました。市域の民権家は、江戸時代に村役人をつとめた家の出身者が多く、自らが生まれ育った地域の安定と発展に大きな関心を持っていました。
開港した横浜に近い市域は、生糸を横浜へ運ぶ「絹の道」の中継地点で、人や文物が集まる場所だったため、西洋の新しい思想に触れる機会が豊富にあったといえます。そこから強烈な個性が誕生しました。神奈川県会の初代議長をつとめるなど、神奈川県の自由民権運動でリーダーシップを発揮した石阪昌孝です。彼をはじめとする市域の民権家たちは、懇親会や演説会を開き、県内の自由民権運動を一つにまとめ、拡大することに熱心でした。
町田の民権家のなかから、石阪昌孝や彼とともに活動し個性を発揮した村野常右衛門・細野喜代四郎・青木正太郎の4人にくわえ、石阪の子どもたちにも焦点を当てて紹介します。

1.いしざかまさたかー神奈川県を代表する民権家ー

野津田村出身。幕末から地域の安定や教育の刷新さっしんなどに力を入れました。明治12(1879)年には神奈川県会議員となり、初代議長をつとめます。懇親会で人びとを結びつけ、政治結社を設立し、自由党に合流させるなど、神奈川県の自由民権運動で中心的な役割を果たしました。

2.石阪昌孝の子どもたちー民権家の子どもの生涯ー

長女「石阪美那みな

野津田村出身。明治18(1885)年の夏、野津田村の自宅で北村門太郎(透谷)と出会い、2年後に結婚しました。透谷の死後、アメリカに留学します。帰国後は、英語教師として活躍しました。

美那の夫「北村透谷きたむらとうこく

小田原唐人とうじんちょう出身。東京専門学校(現早稲田大学)在学中、多摩地域を放浪し、民権家と交流を深めます。東京で急進的な青年民権家グループに参加しますが、大阪事件を期に同志たちと決別しました。葛藤かっとうの日々を過ごした時期に石阪美那と結ばれます。のち、文学者として世間から注目される存在になっていきました。

長男「石阪公歴まさつぐ

野津田村出身。明治19(1886)年、商業実地研究を目的に渡米し、アメリカ西海岸で日本政府批判の新聞『新日本』などを発行しました。昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まるとマンザナー強制収容所に入れられ、収容所で亡くなりました。

三女「石阪登志とし

野津田村出身。東京音楽学校(現東京芸術大学)のバイオリン専修部で学びました。姉の美那と同様、高い教育を受けました。卒業後は私立明治女学校、横浜市立老松おいまつ小学校などで音楽教員を務めました。写真右の女性が登志。

3.青木正太郎あおきしょうたろうー民権家から実業家への転身ー

相原村出身。政治結社ゆうかんしゃの設立に加わり、自由党に入党。党の資金収集や関連機関の設立など、南多摩郡の中心的な党員として活動しました。また、武相銀行頭取を務めるなど地域経済の振興にも寄与しました。神奈川県会議員、衆議院議員を歴任し、政界引退後は企業経営に専念し、特に鉄道業界で大きな業績をあげました。

4.細野喜代四郎ほそのきよしろうー地域につくした民権家ー

小川村出身。たくかい・武相懇親会・ゆうかんしゃに参加するとともに、各地の演説会で弁士として活躍し、自由党に入党します。また、連合ちょう・神奈川県会議員・南村村長などを歴任して、武相困民党事件では負債に苦しむ農民と金融業者との仲裁に奔走しています。晩年には、南村の歴史をまとめています。一貫して地域行政に尽力しました。

5.村野常右衛門むらのつねえもんー民権家から中央政界へー

野津田村出身。石阪昌孝らと融貫社を結成し、自由党に入党します。明治16(1883)年にりょう霜館そうかんを設立して青年民権家を育成し、明治18(1885)年には大阪事件に参加しました。石阪昌孝が代議士を引退した後、衆議院議員となり、政党政治家として立憲政友会の要職を歴任しました。また、実業家としての顔も持っていました。

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