自由民権資料館常設展示「自由民権運動と町田」その3

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更新日:2022年11月2日

「武相地域の自由民権運動」(旧神奈川県域の自由民権運動紹介ゾーン)

現在の町田市を含む東京都多摩地域の大半は、もともと神奈川県に属していました。武蔵国6郡と相模国9郡から成り立つ旧神奈川県は、「武相」と呼ばれました。
武相地域には、開港地横浜があったため、欧米の思想に接する機会にも恵まれました。それらを採り入れながら新たな社会づくりを考えた地域リーダーたちにとって、欧米諸国の影響を強く受け、自由や権利を重んじて国会の開設と憲法の制定をめざす自由民権運動は、魅力的に映ったでしょう。
神奈川県会の開会は、県内有志の連携を生み、各地に結社ができるきっかけになりました。懇親会や演説会・討論会を開きながら、全国的な運動との結びつきを強め、武相地域は自由党の一大勢力地となりました。しかし、政府の言論弾圧や不景気により運動が停滞してくると、明治20年頃から、暴力も辞さない「壮士」と呼ばれる若手の民権家が出てきます。特に多摩地域の運動では、壮士の活動が盛んだったことも特徴でした。

1.つどい、つながる地域のリーダー

神奈川県会での活動

明治12(1879)年、神奈川県会が開かれ、地域リーダーの政治参加が実現します。各議員は議論を重ねることで政治的に成長しました。さらに、県会でのつながりを活かし、広域のネットワークをつくりました。このような活動・経験が、以後、県会議員経験者を中心に展開される、武相の自由民権運動のいしずえとなりました。

結社での活動

明治10年代以降、武相各地で結社の活動がはじまります。幕末から明治初年の急激な社会変化に向き合い、欧米諸国の制度や思想、とりわけ立憲制度やそのもとになっているてんじんけん思想を社員たちは熱心に学んでいます。定期的に演説・討論会を開催し、社員の知見を広め、思想を深めることで、新しい社会を創りだそうと模索していたのです。

2.全国への広がり、地域とのかかわり

武相の国会開設運動

明治13(1880)年には、国会開設運動とそれにともなう憲法起草運動が全国的に盛り上がりました。相州九郡では2万人以上の署名を集めて国会開設の建白がなされる一方、北多摩郡ほん宿しゅく村(現府中市)出身の松村弁治郎は個人で建白書を提出しました。

自由党への参加

明治14(1881)年、自由党が結成されると、武相地域から多くの人が自由党へ入党しました。ただ、明治15(1882)年の「集会条例」改定で政党の地方支部が禁止されると、地方の組織化や連携が難しくなります。武相の自由民権運動は、以後、党の方針に基づく全国的に統一された活動へと変わっていきました。

民権運動の拡大~演説会、新聞・雑誌~

演説会は、言論を武器とする自由民権運動に欠かせないものでした。武相地域では明治13(1880)年ころからジャーナリストを招き、演説会を開いています。また、北多摩郡で『さしそう』が出版されるなど、活字メディアも生まれます。これらの声や文字のメディアは、集団の意思を統一し、表明するうえで効果的でした。

3.武相困民党こんみんとうと民権家の動き

武相困民党に対する、民権家たちの立場は一様ではありませんでした。きんゆう会社の経営をして債権さいけん者となっていた者、困民党に寄り添い救済をきゅうさいめざす者、債権者と困民党の間に入り、互いの譲歩をじょうほ引き出そうとする者などです。民権家たちは、様ざまな立場や考え方に従い、武相困民党と向き合いました。

4.大阪事件~急進化する民権家たち~

武相地域の事件参加者

言論活動が弾圧され、急激な物価下落で景気が低迷した明治10年代後半、運動は行きづまり、急進化して激化事件が多発します。その一つが明治18(1885)年に発覚した大阪事件で、最も多くの参加者を出したのが当時の神奈川県でした。予審にかけられたのが16名で、深く関わり公判にかけられたのは12名でした。

大阪事件の構図

大阪事件は、多くの自由党員が計画に参加した事件でした。背景には、文明優位の考え方と、ナショナリズム的傾向があり、朝鮮の開化派と手を組み朝鮮政府を転覆てんぷく、それにより起こるナショナリズム高揚こうようを利用して国内でも革命を起こそう考えたのです。計画はすいに終わり、参画者は逮捕、裁判にかけられますが、国内での革命計画は公訴理由から外されました。

5.明治20年代の政治運動と三多摩移管

国会開設前夜

自由党は明治17(1884)年に解党しますが、明治23(1890)年の国会開設を目前に、だいどうだんけつ運動・三大事件建白運動に火がつきます。県内の旧自由党では、ぼうな行動をとる壮士が登場し、穏健おんけん派との対立が深刻化するなか、神奈川県通信所・神奈川県倶楽部くらぶが組織されました。一方、北多摩では穏健派を中心に正義派が組織されました。

実現した憲法・国会のもとで

明治22(1889)年に憲法が発布され、翌年7月初の総選挙が行われます。2人区の三多摩(神奈川県第3区)では、自由党主流派の石阪昌孝と北多摩郡正義派の吉野泰三を中心に、選挙戦が繰り広げられます。特に第2回総選挙では官憲の選挙干渉もあり、自由党と政府よりになった吉野泰三とのあいだで激しい対立がありました。

三多摩移管~神奈川から東京へ~

第2回総選挙では、選挙干渉があったにもかかわらず自由党が勝利します。県会で責任追求された県知事は、自由党の勢力地三多摩の東京移管を考えます。東京府も玉川上水一括管理の課題があり、三多摩移管は宿願でした。明治26(1893)年2月に移管法案が国会に出されると、賛成反対にわかれ運動が展開されますが、法案は可決され、三多摩は東京府管轄となりました。

6.被差別部落の自由民権運動

江戸時代ににんと呼ばれべっされた身分は、明治政府の「四民平等」の原則で制度上は撤廃されますが、人びとの差別感情は簡単にはなくなりませんでした。南多摩郡の被差別部落では、クリスチャンとなった山上卓樹・山口重兵衛らが、自由民権運動に参加します。キリスト教や自由民権運動の自由・権利・平等の思想に共感したのでしょう。

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