町田の民権家と結社

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更新日:2022年8月24日

自由民権の碑(透谷・美那子出会いの地)
北村透谷は、多感な青年時代に自由民権運動に参加し、多摩の個性的な人物と交流しています。また、25歳4か月の短い生涯での文学活動の原点には、彼の自由民権運動への参加や離脱体験、多摩の人びととの交流、石阪昌孝の長女美那との恋愛がありました。1985年11月3日に、民権の森(石阪昌孝屋敷跡、現在のぼたん園内)に建てられました。

町田の民権家たち

石阪昌孝いしざかまさたか

1841(天保12)年から1907(明治40)年。
多摩郡野津田村(現町田市野津田町)に生まれました。明治初年、戸籍区戸長、区長などを経験し、初代神奈川県会議長となります。早くから地域の教育運動を組織し、地域の自由民権運動では常に先頭に立ちました。町田をはじめ神奈川県下自由民権運動の最高指導者の一人です。1890(明治23)年の国会開設にあたって衆議院議員となり、4期つとめたのち群馬県知事に抜擢されました。石阪美那・公歴の姉弟の父で、北村透谷の義父です。

村野常右衛門むらのつねえもん

1859(安政6)年から1927(昭和2)年。
多摩郡野津田村に生まれました。野津田村戸長時代に自治運動に取り組み、中堅的な民権運動家として活躍し、文武道場「凌霜館」を建てて若手民権家の育成に取り組む一方、大阪事件に参加、県会議員にも当選しています。その後、衆議院議員となり、1914(大正3)年には立憲政友会の幹事長になります。

青木正太郎あおきしょうたろう

1854(安政元)年から1932(昭和7)年。
多摩郡相原村に生まれました。父勘次郎とともに民権運動に参加し、多摩の自由民権運動・政治運動の中心的指導者として活躍した一人です。1882(明治15)年には相原村に「講学会」という民権学習結社を結成しました。村会議員や県会議員を経験して、衆議院議員を二期つとめたのち、財界に転身し、地域産業の育成を重視しました。

細野喜代四郎ほそのきよしろう

1854(安政元)年から1924(大正13)年。
多摩郡小川村に生まれました。隣村鶴間村の井上光治らと学習結社「琢磨会」を創設し、武相懇親会に参加、しばしば演説会の弁士となって活躍します。困民党事件の際には負債農民と金貸会社との間に立って苦悩します。「細野メモ(細野覚書)」によって、一人の若者がどのように民権思想を身につけていったかを知ることができます。

町田の結社

責善会せきぜんかい

多摩で生まれた学習・親睦結社で、現在発見されているなかでは多摩地域で二番目に古い、1878(明治11)年5月に結成されました。中心人物は橋本政直・石阪昌孝・中溝昌弘・若林三右衛門・村野常右衛門らで、町田市域内から23名が参加しています。民権学習や政治運動組織ではありませんが、平等の発言権を持つ徹底した討論方法を採用し、会員の質の向上を図っています。

琢磨会たくまかい

学芸・演説・討論の研究会で、1880(明治13)年に小川村の細野喜代四郎が鶴間村の井上光治らと相談して、結成しました。南多摩・都筑・高座の3郡7か村から16名が参加しました。演説・討論などを行いながら、民権思想吸収に切磋琢磨しました。

武相懇親会ぶそうこんしんかい

1881(明治14)年1月30日に原町田の吉田楼で開催された懇親会です。東京から民権派ジャーナリストの末広重恭や肥塚龍らを招き、民権論を聞きました。武相7郡49か村から、戸長・筆生・県会議員など各村の有力者が勢揃いし、武州・相州の地域指導層のなかに自由民権運動を拡げていく画期となった集会です。これをきっかけに、各地に運動が広まり、続々と結社が誕生します。

融貫社ゆうかんしゃ

1881(明治14)年11月に、武相懇親会の開催に熱心だった有志を中心に、武州と相州の国境あたりの民権家を統一するかたちで設立された政治結社で、県下でもっとも有力な結社の一つです。石阪昌孝・村野常右衛門・細野喜代四郎らをはじめ、都筑・鎌倉郡からも有力者が参加しました。民権を拡げることを目的に、演説会や討論会を開催し、自由党が結成されると社員らは大挙して入党します。

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町田市立自由民権資料館

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