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古代から近世のころの町田

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更新日:2023年5月9日

古代こだい奈良時代ならじだいから平安時代へいあんじだい

武蔵国の位置を示した地図の画像 赤いところが武蔵国の場所だよ。

645年におきた大化改新たいかのかいしんから、日本はとうという国(今の中国)にならって、法律ほうりつをつくり全国ぜんこく支配しくみするしくみがきめられたよ。
とうみやこにならった新しい都は碁盤ごばんの目のようにきちんとととのったまちなみで、いろいろな役所やくしょがたちならんでいたよ。
地方ちほうは多くの国に分けられたよ。
町田市はほとんどが武蔵国むさしのくににふくまれたんだ。
武蔵国むさしのくに現在げんざい埼玉県さいたまけん東京都とうきょうと神奈川県かながわけん一部いちぶがふくまれるよ。

かわらがまの写真 町田市でみつかった”かわらがま”の写真だよ。

その国々には国府こくふ(今の役所)がおかれ、中央ちゅうおう貴族きぞく国司こくしとしてつかわされ政治せいじが行われたよ。
政治の中心である都や国府には、かわらで屋根やねをおおった建物たてものがたてられ町田市内には、そのかわらをいた“かわらがま”が発見はっけんされているよ。

中世ちゅうせい鎌倉時代かまくらじだいから戦国時代せんごくじだい

武士の屋敷跡の写真 鎌倉時代から室町時代にかけての武士のやしき跡(あと)だよ。

1192年、源頼朝みなもとのよりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐんになり、鎌倉かまくら幕府ばくふをひらいたよ。 
鎌倉時代のはじめには大泉寺だいせんじ(場所:下小山田町しもおやまだまち)にやかたをかまえた小山田おやまだ横山党よこやまとうなどの武士が市内で活躍かつやくしたんだよ。 
市内には、おしろのあとも見つかっているよ。このころのお城は、土で作られていて、その城のまわりをほりと土をもりあげて作ったかべでかこんだものだったよ。

町田で見つかったお金の写真 写真のお金は、やく1万枚(約36キログラム)あるよ。

経済けいざい活発かっぱつになってきて、お金の流通りゅうにゅうもさかんになったよ。
この頃は日本でお金がつくられていなかったので、中国から輸入ゆにゅうしたお金をつかっていたよ。 
能ヶ谷のうがやからは9万まいものお金が土の中から発見はっけんされたよ。

近世きんせい安土あづち桃山時代ももやまじだいから江戸時代えどじだい

旧永井家住宅の写真 江戸時代のころのものである旧永井家住宅は、薬師池公園にあるよ。

薬師池やくしいけ公園こうえんの中にあるきゅう永井家ながいけ住宅じゅうたく江戸時代えどじだいのころのものだよ。
とても古い家で、国から重要文化財じゅうようぶんかざいとみとめられたものだよ。永井家は多摩丘陵たまきゅうりょう農業のうぎょうをつづけていた家なのだけど、多摩たまニュータウンの建設けんせつのときに薬師池公園にうつされたんだ。
この家は、まどが少ないから家の中は暗かったんじゃないかな。天井てんじょういたもないし、竹でできたスノコのゆかだから冬はとってもさむかったと思うよ。
でも、この家はふつうの農家とくらべて裕福ゆうふくだったようだよ。ふつうの農家の家はもっとせまかったし、まずしい家の床は土間どまにわらやモミガラをしいてその上にわらであんだしきものをしきつめてくらしていたそうだよ。

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