自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その2

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更新日:2020年7月7日

自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その2

自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その1に続き展示内容を紹介いたします。

7自由党への参加~武相の民権運動と政党活動~

国会開設運動の盛り上がりは、全国の有志が参加した1880(明治13)年の国会期成同盟の結成、さらに81年、初の全国政党である自由党の結成へとつながりました。武相地域から国会期成同盟への積極的な参加は確認できませんが、自由党への入党者数は全国的にみても多く、自由党の牙城の一つともなりました。また、石阪昌孝や吉野泰三のように、幹部として党中央の活動に関与する者もいました。
ただ、82年の集会条例改定で地方支部が禁止されると、地方の組織化や連携に苦しみながら活動せざるをえなくなります。地域的な課題を意識した結社の活動からはじまった武相の自由民権運動は、これを機に、党の方針に基づく全国的に統一されたものへと変わっていきます

「自由党盟約」
1882(明治15)年7月 相原町・青木克子家
自由党は1881(明治14)年10月、板垣退助を総理として結成されました。自由の拡充・権利の保全・幸福の増進・社会の改良をはかること、「善美ナル立憲政体」を確立することを目的に掲げています。集会条例で支部が禁止されたため、支部に関する条項などが削除されています。

八王子広徳館の広告
1883(明治16)年10月13日 相原町・青木克子家
法律研究・代言弁護人紹介・人権保護伸張を目的に、八王子に設立されました。代言事務所としての役割を果たすかたわら、南多摩とその周辺の自由党員の連絡事務所にもなっていました。館主は南多摩郡大塚村(現八王子市)の林副重で、石阪昌孝や青木正太郎も設立に尽力しました。

8盛り上がる演説会~新しい語り方にのせて~

自由民権運動の特徴に、演説会や討論会を熱心に開いたことがあげられます。演説や討論は、もともと欧米の文化で、明治になって日本に採り入れられたものでした。特に、大勢に自らの考えを伝える演説は、民権運動に不可欠な活動手段となります。1880(明治13)年ころから、武相各地でも演説会が開かれました。演説会では、「雄弁家」とも評された東京や横浜の民権派ジャーナリストも招かれ、地元の民権家とともに演壇に立ちました。
これに対し、政府は集会条例を定めます。これにより、臨席する警察官が演説会の中止解散を命じたり、弁士を検挙するなど、たびたび言論弾圧が加えられました。しかし、警察官を前にした政府批判演説により、かえって会場は緊張と興奮に包まれ、さらなる盛り上がりをみせました。

細野喜代四郎
安政元(1854)~1924(大正13)年 小川・細野武文家
南多摩郡小川村の民権家。1880(明治13)年に琢磨会を結成し、演説討論を定期的に行ったほか、武相各地の演説会や懇親会に出席、時には登壇し演説しました。

細野喜代四郎の活動日誌
1884(明治17)年 小川・細野武文家
南多摩郡小川村(現町田市)の民権家、細野喜代四郎の覚書(メモ)で、前半部分には、自由民権運動に参加していく過程と演説会・懇親会などの活動について書かれています。細野が弁士として活躍していたことを知ることができます。

演説会の様子
『絵入自由新聞』、1888(明治21)年3月14日
演壇で演説会もしくは演説の中止が言い渡された場面で、怒った聴衆が茶碗などを投げています。聴衆が興奮している様子がわかります。

9新聞・雑誌~道具としてのメディア~

自由民権期には、新聞・雑誌などのメディアが運動と絡みあいながら生まれました。武相地域でも、『横浜毎日新聞』『武蔵野叢誌』などが創刊され、新聞・雑誌が発信する情報に触れた人びとは、おなじ「読者」として、情報や価値観を共有することとなります。地域リーダーとその子弟、教師などは、地域社会における新聞・雑誌の主要な読者であったことはもちろん、しばしばその編集・発行・流通や内容の普及に携わったり、投書などの手段によって、自らの主張を紙誌面に反映させたりもしています。
新聞・雑誌などのメディアは、集団の意思統一をはかったり、集団の意思を外部に対して表明するうえで効果的だったことから、言論を武器とする自由民権運動の有効な道具としても、積極的に活用されました。

『官許 横浜毎日新聞』第478号
明治5年6月17日(1872年7月22日) 原町田・武藤充家
『横浜毎日新聞』は、明治3年12月8日(1871年1月28日)に創刊された、日本初の日刊新聞です。区会所や新聞縦覧所などに置かれ、多くの人に読まれました。

『江湖新報』第1~10号
1880(明治13)年11月15日~同年12月12日 当館
四通社発行。北多摩郡小金井村(現小金井市)出身で、のちに自由党員となった大久保常吉は、『江湖新報』の編輯兼印刷人でした。また、『武蔵野叢誌』の論説を執筆し、自らの演説筆記「団結論」を寄稿するなど、言論・出版の世界で幅広く活動しました。

『武蔵野叢誌』
1883(明治16)年10月7日創刊~1884(明治17)年11月30日終刊 相原町・青木克子家
西森武城のち伊藤伊之助編集、武蔵野叢誌社発行。北多摩郡の比留間雄亮・本田定年・木村新之助の3名が発起人、西森武城が編集人、渡辺寿彦が持主兼印刷人となって発行した、多摩で最初の定期刊行雑誌です。政治論・社会論から漢詩や俳句まで幅広く扱う地域総合雑誌でした。

10民権期の民衆運動~土地と金融をめぐって~

欧米の資本主義にならい、政府が経済の仕組みを整えはじめると、いちはやくこれにのっとり、経済的な成功をおさめようとする者があらわれました。一方、新たな制度や規則は、慣習や慣例に変更をせまるものでしたから、これには戸惑いや不安を抱く者もあり、両者のあいだには紛争や騒動などが頻発しました。
ここでは、武相地域における土地や金融をめぐる騒動をとりあげ、対立の構図や経過、さらには地域リーダーたちによる仲裁活動に焦点をあてます。
これらの騒動には、民権運動と政府の対抗とは異なる、同時代におけるもう一つの対抗関係が見てとることができ、「自由」と「平等」の間に生じる葛藤など、資本主義化(近代化)にともなう問題があらわれています。

「金の敵」
『団団珍聞』第456号、1884(明治17)9月6日 当館
「コン弓」(困窮)や「ヒン棒」(貧乏)、「ムテツ砲」(無鉄砲)などを手に、「蜂逢ふ子」(八王子)の「貸附城」に押しかける勢子たちが描かれています。武相困民党事件をあつかった数少ない風刺画です。

武相銀行久保沢出張所の書類箱
1883(明治16)年1月21日製作 相原町・青木克子家
フタの表には「武相銀行」、裏には「武相銀行久保沢出張所」(久保沢は現相模原市城山町久保沢)と墨書されています。青木家にはもう一つ書類箱が残されており、いずれにも武相銀行や困民党関係の書類が収められていました。

共融会社の仲裁人あて回答書
1884(明治17)9月27日付 常盤町・薄井梅子家
各郡の仲裁者たちにあてた、共融会社からの回答書です。共融会社は、南多摩郡新井村(現日野市)の土方啓次郎が社長をしていた金貸会社で、“貧困者に限って5か年以内の分割返済を認める”としています。

11激化する民権運動~大阪事件と武相の民権家~

たび重なる政府の弾圧と急激な不況で、自由党の活動が次第に停滞してくると、情況の打開をめざして急進化する民権家があらわれます。彼らにより、福島事件・加波山事件・飯田事件・大阪事件など、政府との激しい衝突やテロ・武力蜂起計画の発覚といった事件が、全国各地でひき起こされました。
これら激化事件のうち、武相の民権家が多く参加したのが大阪事件で、全国で最も多くの検挙者を出しました。大阪事件は、朝鮮の開化派に協力して朝鮮でクーデターを起こすことで、清国と日本との緊張関係をつくり出し、その機に乗じて日本国内の政権奪取をめざす、という計画でした。しかし、事前に発覚して未遂に終わります。この事件には、対外的には国家の権益を重視するという、民権家の国権主義的側面が色濃くあらわれていました。

大矢正夫の「勾留状」
1885(明治18)年11月24日 野津田町・村野浩太郎家
大矢正夫は朝鮮渡航計画のため長崎にいたところを、1885(明治18)年11月23日に検挙されました。「窪田道三」となっているのは、大矢正夫が偽名を使ったためです。

獄中の村野常右衛門を詠んだ石阪昌孝の歌
1886(明治19)年ころ 野津田町・村野浩太郎家
石阪昌孝が、大阪事件で逮捕され獄中にいる村野常右衛門を詠んだ歌です。村野を、国のために心を尽くした剛男(ますらお)とし、大阪事件に参加した彼の行動を愛国心の道しるべになると評価しています。

1925(大正14)年 野津田町・村野浩太郎家
東京芝の紅葉館に、大阪事件40周年を記念して関係者が集まった時の集合写真です。前列左から2人目が景山英、1人おいて村野常右衛門、さらに1人おいて小久保喜七、故大井憲太郎の肖像写真、落合寅市と並んでいます。後列の左から2人目は大矢正夫です。

12国会開設を視野に~大同団結・三大事件建白運動~

国会開設が近づくと、自由民権派の動きはふたたび活発化します。党派を超えた団結を呼びかける大同団結運動や、「地租軽減」「言論・集会の自由」「外交失策の挽回」を掲げる三大事件建白運動が、大々的に展開されました。
自由党解党後、従来のネットワークを維持すべく神奈川県苦楽府を組織していた武相地域の旧自由党系の運動家たちは、これを機に情報発信機能を充実させた神奈川県通信所を設けます。さらに、1889(明治22)年2月に憲法が発布されると、中央での大同団結運動に混乱・亀裂が生じるなか、総選挙にむけた組織基盤強化のため、神奈川県倶楽部を結成しました。
 一方、実力行使を伴って台頭した「壮士」の運動に批判的な面々が北多摩郡正義派を結成するなど、神奈川県倶楽部から離脱する動きも起こりました。

「神奈川県倶楽部規則」
1889(明治22)年6月 野津田町・村野浩太郎家
神奈川県倶楽部は、1889年3月、中島信行を発起人に、214名の賛同を得て発足しました。6月25日の常議員会の結果を反映したこの規則には、監督の中島以下、市郡選出の常議員、幹事の森久保作蔵・志村慎一郎・天野政立が、名を連ねています。

鶴川村有志の条約改正反対の建白書(写)
1889(明治22)年10月 真光寺町・小野宗親家
元老院議長大木喬任あて。大隈重信外務大臣の条約改正交渉に対して、旧自由党系の人びとは反対運動を起こします。本史料は鶴川村有志による建白書で、背景には石阪昌孝の指導があったものと推察されます。

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