自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その3

このページの情報をフェイスブックでシェアします

このページの情報をツイッターでシェアします

このページの情報をラインでシェアします

更新日:2020年7月7日

自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その3

自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その2に続き展示内容を紹介いたします。

13初期議会期の地域政治~国政というステージのもとで~

帝国議会の開設は、「国会開設」を旗標にしてきた自由民権運動にとって、ひとつの到達点であると同時に、次なるステージの幕開けを告げるものでもありました。地域リーダーたちは、選挙人・被選挙人として、さらには代議士として、間接・直接に国政に参加することとなります。
1890(明治23)年7月1日におこなわれた第一回総選挙で、神奈川県に割りあてられた選挙区は全部で六、定員は七名でした。この狭き門に自派から当選者を出すため、必至の選挙戦が展開されました。特に、唯一定員が2名だった第三区(三多摩)を中心では、石阪昌孝らの自由党主流派と吉野泰三ら北多摩郡正義派は激しい選挙戦を繰り広げました。そしてその選挙戦では、実力行使も辞さない「壮士」たちが運動員として活躍しました。

石阪昌孝
天保12年4月22日(1841年6月12日)から1907(明治40)年1月30日
多摩郡野津田村(現町田市)生まれ。武相の自由民権運動を中心的に担ったひとりです。国会開設前後から壮士のリーダー的存在となり、吉野泰三・内野杢左衛門らとの対立を深めます。第1回総選挙から衆議院議員を4期務め、1896年には群馬県知事になりました。

吉野泰三
天保12年1月2日(1841年1月24日)から1896(明治29)年7月23日
多摩郡野崎村(現三鷹市)生まれ。演説会の開催や、自治改進党の結成など、北多摩郡における自由民権運動の中心的存在で、自由党中央でも活躍します。国会開設前後から石阪昌孝らと対立し、「正義派」を結成、第一回総選挙に臨みますが、落選してしまいます。

第5回臨時総選挙での投票
1898(明治31)年3月 相原町・青木克子家
総選挙で誰が誰に投票したのかを記録した「三多摩郡衆議院議員選挙人名簿」です。赤丸が自由党(青木正太郎・比留間邦之助)、黒丸が新自由党(中村克昌・森久保作蔵)、カタカナが候補者の頭文字です。記名制・連記式(2名を選ぶ)の採用が、投票行動の把握を容易にしたといえます。

14三多摩移管~神奈川から東京へ~

神奈川県に属していた西・南・北の三多摩郡は、明治前期に神奈川県と東京府にとって「懸案の地」となります。東京府にとっては、府民の飲料水となる玉川上水の水質管理の観点から、神奈川県にとっては、税収上の重要地である反面、自由民権運動の拠点である「厄介」さから、でした。
1893(明治26)年2月、水系伝染病のコレラが大流行した80年代以来の東京府当局の危機感に、選挙をめぐる神奈川県当局と自由党との対立が重なって、ついに移管法案が国会に提出されます。会期末を10日後に控えての提出とあって、武相には衝撃が走り、可決を経て移管に至る一か月強、南多摩郡を中心に移管反対、北多摩郡では移管賛成の動きが広がりました。移管への賛否は、地域ごとに異なる利害関係や政治的思惑を反映しています。

移管概念図

県会議員による移管反対理由書
1893(明治26)年2月26日 真光寺町・小野宗親家
「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案ニ反対スル理由書」と題され、移管反対派の県会議員50名が名を連ねています。移管法案の審議を薄氷を踏む思いでみつめているというかれらは、三多摩が県の財源であり、移管は県に甚大な被害をもたらすと主張しています。

三多摩復旧を求める「請願書」
1893(明治26)年(推定) 忠生・高梨理由家
「不条理ナル」移管法案の提出に際し、神奈川県下の人びとが、「百方泣訴」したにもかかわらず、移管が認められたとして、三多摩の復旧を求めています。自己の利害にのみこだわることに注意を払いつつも、玉川上水の問題に関しては、別の解決策があるはずだと述べています。

「神奈川県東京府エ管轄換ノ件」
1893(明治26)年3月 真光寺町・小野宗親家
鶴川村の小野与平が、移管関係の書類をまとめていた綴りの表紙です。おもに反対派が作成したチラシが、まとめられていました。

15明治20年代の若者~青年像の模索~

政党間の勢力争いが激しさを増してくると、政治運動や選挙の場面には、腕力にモノを言わせる「壮士」たちが台頭します。
一方、憲法発布や国会開設を新たな時代の到来と歓迎し、それにふさわしい青年像を模索する思潮が、若者たちをとらえてゆきました。
武相地域にも、憲法発布・国会開設と、それに先んじた町村制の施行を立憲制や地方自治の実現と受けとめ、そのもとで青年の役割を見い出そうとする若者たちがあらわれます。彼らは「壮士」には批判的でしたが、地域社会や国の未来図を描き、そのためのあるべき青年像をつかもうと、身近な話題から世界的な動静まで、知識や情報の吸収には貪欲でした。

「大成会討論席次」
1890(明治23)年12月推定 当館「町田村青年会関係史料」
大成会が討論会を開く際の席次番号簿です。討論会では各自の席次番号が定められており、議会の形式を意識していたと考えられます。大成会の討論会の様子をさぐる手がかりの一つです。また、この史料には「三橋てう」「武藤しか」という女性2人の名前が確認できます。

辛卯会の「討論席次番号」
1891(明治24)年8月 当館「町田村青年会関係史料」
大成会で使用していた席次番号簿が、1891年8月につくり直されました。大成会の席次番号には載っていた女性の名前はありません。大成会への女性参加が議論された2月13日の討論の結果と関係があるのでしょうか。

「町田倶楽部規則」草稿
1892(明治25)年11月から12月ころ 当館「町田村青年会関係史料」
大成会が辛卯会に名称変更してから2年、「町田(青年)倶楽部」へと名称を変更し、規則も一新します。当時の青年は、健全な身体を維持することにも関心を持っており、それが反映しているのか、これまでの演説討論だけではなく、武学講習として剣法と柔術が採用されています。

16石阪昌孝の子どもたち~美那・公歴・登志と北村透谷~

武相地域の民権運動の指導者、石阪昌孝と妻ヤマには、二人の娘と一人の息子がいました。長女美那が慶応元(1865)年、長男公歴は同4年、次女登志は明治3(1870)年の生まれです。放浪の道すがら石阪昌孝を訪ねたことがきっかけで、のちに美那と結婚する北村門太郎(透谷)も明治元年の生まれですから、石阪姉弟と同世代です。
彼らが青春時代をおくった明治10年代は、父昌孝が民権運動のリーダーとして華々しく活躍した時期である反面、のちの民権運動の退潮を直視せざるをえない時代でもありました。やがて、美那は透谷との恋愛、結婚を決意し、公歴は渡米の道を、登志は音楽教師の道を選びます。透谷は、詩や評論などを通して、明治20年代の青年たちの思想に一石を投じます。

美那の決意書
1880年代頃(推定) 川崎市麻生区・西城崇士家
もともとは署名のある封筒に入れ、厳重に封がされていたとされる、謎めいた文書です。儒教道徳の教えに忠実な女性が描かれていますが、実際の美那は、親が決めた婚約者との結婚ではなく、透谷との恋愛、結婚を選んでゆきました。

石阪公歴と美那
明治10年代前半(推定) 鎌倉市・堀越宏一家(当館保管)
前列右が公歴、中央が3歳年上の姉美那です。1877(明治10)年に美那は東京下谷の日尾女塾に入り、80年には同塾の助教となるので、このころの撮影でしょう。

石阪公歴の渡米第6報書簡
1887(明治20)年3月3日 文京区・渡瀬信正家(当館保管)
姉(美那)宛。「精神即チ心魂ノ薄弱」な自分を慨嘆し、「悲マザラント欲スルモ止ム可カラズ」と弱音を吐き、助けを求めています。理想通りに歩めない人生に煩悶する公歴の姿を見て取れます。それでも、商業校で学び、アメリカの都市を回り修業・熟練することをめざすとしています。

17記憶と記録~顕彰と再評価~

武相地域には、民権家や自由民権運動を讃える顕彰碑が数多く残されています。このことは、かつて武相地域で民権運動が活発に展開し、その運動に感銘を受け、顕彰に努めた動きがたびたび起こったことを意味します。
この顕彰碑は、二種類に分けられます。一つは、顕彰される民権家や出来事と同時代の人びとが建てたもので、碑文には深い共感が刻まれています。もう一つは、後世の人びとが建碑したもので、研究の進歩とともに、様ざまな事跡を掘り起こし、戦後民主主義の歴史観による再評価を加えています。いずれの碑も、故人の偉業や悲喜こもごもの出来事の記憶を、風化させず、永久に語り継ぎたい、という思いは共通しています。これら新旧の顕彰碑を訪れ、武相地域の民権運動に思いを馳せてみてください。

石阪昌孝の顕彰碑拓本(縮小版)
1916(大正5)年除幕 渋谷区・中井仁氏
八王子市富士森公園内の浅間神社に建つ顕彰碑に刻まれた「放庵石阪君之碑記」の拓本です。実物はみあげるほどの大きさです。建碑は村野常右衛門と森久保作蔵を中心に進められ、篆額を海軍大将の樺山資紀、書を北多摩郡谷保村(現国立市)の本田定年が担っています。

「武相困民党発祥之地」碑
1986(昭和61)年11月19日建立(24日除幕式) 相模原市・青柳寺
1884(明治17)年7月31日、武相国境での最初の困民党集会が、この地で開かれたことを記念したものです。武相地域での「自由民権百年」運動のフィナーレを飾る企画として、相州の研究者と上鶴間の困民党指導者の子孫とが協力して建碑しました。

18部落・民権・キリスト教~響きあう信仰と運動~

江戸時代に「穢多」「非人」などと称され、蔑視された身分は、明治政府の「四民平等」原則によって、制度上は撤廃されました。しかし、長い歳月にわたって人びとの心に植えつけられてきた差別感情は、簡単には拭えません。かえって、従来差別とひきかえに保障されてきた生業や役目が奪われたために、被差別部落は経済的にも苦境にたたされることとなりました。
そうしたなか、南多摩郡の被差別部落では、クリスチャンの山上卓樹・山口重兵衛らが、布教や教育活動に尽力する傍ら、自由民権運動にも惹かれ、自由党に入党しています。被差別部落に生まれた彼らは、キリスト教が説く自由や平等が、天賦人権思想に支えられた自由民権運動とも気脈を通じていることを敏感に感じとり、積極的に採り入れたのでしょう。

山上卓樹
安政2年4月11日(1855年5月26日)から1931(昭和6)年4月19日
幼名は作太郎。明治初頭、啓蒙思想家の中村正直が主宰する同人社で、キリスト教や自由・平等の思想に触れます。山口重兵衛らと布教にあたるかたわら、教育活動をおこない、1882(明治15)年には自由党に入党しました。

山上卓樹揮毫の掛け軸
年月日不明 当館「山上家文書」
「風起す/ちからうせても/しふうちわ/またふさはしき/鍋のした敷」とあります。晩年の作でしょうか、自身の青壮年期をふり返りつつも、なお主体的に「現在」を生きようとする意思がうかがえます。

山口重兵衛
嘉永元年8月10日(1848年9月7日)から1916(大正5)年1月29日
生家の柏木家から養子にでた重兵衛は、草履製造の商用で足繁く横浜へ赴くなかでカトリックに触れ、受洗します。同郷の山上卓樹とともに、聖瑪利亜会堂や天主堂学校の運営を支えました。1882(明治15)年9月13日、自由党に入党、村会・郡会・県会議員を歴任しています。

常設展示の紹介は以上となります。
その他にも各種イベントを企画しますのでお楽しみに!

このページの担当課へのお問い合わせ
自由民権資料館

電話:042-734-4508

ファックス:042-734-4546

WEBでのお問い合わせ