自由民権資料館常設展示「武相の民権/町田の民権」その1

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更新日:2020年7月7日

常設展「武相の民権/町田の民権」その1

開催にあたって

幕末から明治初年の急激な変化は、政治だけでなく、経済や文化、生活習慣にいたるまで、地域社会にさまざまな動揺と混乱をもたらしました。幕末から村役人など村の要職を担った豪農商たちは、欧米からの文物にも関心を持ち、それを採り入れつつ、地域リーダーとして秩序の回復・再建にとり組みます。その選択肢の一つが自由民権運動でした。彼らが自由民権運動に参加したのは、幕末以来の国家的危機と激動のなかで地域秩序の再建に奔走しつつ、政治的な自覚を養ってきたためでもあります。
自由民権運動は、国会や憲法をつくることで、国民の参政権を保障するよう政府へ要求し、その実現をめざした運動で、明治10年代を中心に盛り上がりを見せました。その背景には、“人には生まれながらにして自由・平等の権利がある”とする天賦人権思想の影響があります。地域リーダーたちは、自由民権運動が描く国家構想や個人の自主性を重んじる考え方に共感し、社会再編のイメージをふくらませていったのです。明治10年代の義務ばかりが先行して権利が十分に与えられていない時代に、納税・徴兵などの義務に見合う政治的な権利を要求したい、という彼らの欲求が、自由民権運動への参加を促したともいえるでしょう。
現在の町田市域をはじめとする多摩地域は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属していました。神奈川県は、武蔵国(武州)6郡と相模国(相州)9郡から成り立っていたために、「武相」とも呼ばれました。そして当初、武蔵と相模に分かれて活動していた運動を、一つにまとめようとしたのが町田市域の民権家でした。彼らは、1881(明治14)年に原町田で武相懇親会を開き、その後も武相の自由民権運動をリードしていくことになります。地理的にも武蔵と相模の境界に位置した町田が、武相の運動を一つにまとめ上げ、自由党の牙城と呼ばれるまでに成長させる役割を果たしたのです。
本展では、町田市域の民権家たちの動向を中心に、武相地域(旧神奈川県域)における自由民権運動の経過と、運動が地域社会にもたらした影響をご紹介します。

1「自由」と「民権」~自由民権期への扉~

自由民権運動は、明治10年代を中心に、全国的な盛り上がりをみせました。「自由民権期」とも称されるこの時代、「自由」や「民権」は流行語となり、さまざまなモノの名称、デザインやモチーフに用いられ、いたる所にこれらの言葉が記されました。
もちろんそこに書きこまれている理由がすぐにわかるものもありますが、その一方で意図がわかりにくいケースもみられます。このことは、当時の人びとが、いろいろな場面で、ともかくも「自由」や「民権」を使ってみたくなるほどに、「自由」「民権」が人びとを惹きつけた、そうした時代の風潮をあらわしているようです。
自由民権期への扉を開けて、まずはその空気に触れてみましょう。

「自由亭」の岡持
1880年代(推定) 厚木市・難波賢司家
愛甲郡下荻野村(現厚木市)の荻野新宿にあった旅籠・料亭の辰巳屋は、自由民権運動が盛んだった荻野で、しばしば運動家たちの会合の場となりました。「自由亭」を名乗った辰巳屋は、この岡持で料理を運んでいたといいます。

「民の竈勇気の焚付」
1880(明治13)年5月1日発行『団団珍聞』第158号より
政府をあらわすとおぼしき男がくべる薪で、「民権釜」が煮えたぎっています。薪は、「新聞条令」(新聞紙条例)・「讒訪律」(讒謗律)・「集会条」(集会条例)など、一連の弾圧法規になっており、政府による弾圧が運動を高揚させると諷刺しています。

「自由」の盃
年月日不明 小金井市・深澤篤彦家
底部にあしらわれた金色の「自由」が、八方に光を放つデザインです。現日野市域の旧家からも、おなじ盃がみつかっていますので、複数作成して分配したものと推測されます。

2黒船来航~横浜開港と武相地域の人びと~

嘉永6(1853)年の黒船来航は、幕府や大名(武士)だけでなく、武相地域に住む人びとにも大きな衝撃を与えました。
以後、外国人の排斥・天皇中心の政治をめざす尊皇攘夷運動の高まりにより、政治は混乱し、社会不安をまねきます。そうしたなか、人びとは砲台建設や沿岸警備への人員動員など、さまざまな負担を課せられました。
安政5(1858)年に日米修好通商条約が結ばれ、欧米諸国との貿易が活発になります。養蚕業が盛んだった武相地域からは、生糸が大量に輸出され、それをあつかう商人や豪農たちは大きな利益を得ました。
豪農たちは、経営者として、また地域リーダーとして、社会情勢にすばやく対応するため、積極的にさまざまな情報を収集しました。

刷物「太平海岸御固全図」
嘉永6(1853)年から安政元(1864)年ころ 当館「小川・佐藤晃(博)家文書」
「黒船」来航以後、江戸湾や相模湾の防備が進められ、台場(砲台)や海岸線防備の配置・担当を記した図が出回るようになりました。こうしたなか、日本の現状に関心を持ち始めた人びとは、このような刷物を情報源のひとつとして、積極的に収集するようになります。

冥加金の請取
安政2(1855)年1月 野津田町・河井将次家
具足代の一部を冥加金として献上した際の領収証です。

「北亜墨利加(アメリカ)合衆国帝王ヨリ献上貢物品々」
幕末(推定) 当館「下小山田町・若林照雄家文書」
ペリーは、再来航の際に友好を示す意味で、多くの贈り物を持参しました。なかでも蒸気機関車の模型は、近代文明の象徴的な品でした。想像で描いているため、さまざまな形の蒸気機関車の模型が描かれました。

3村にとっての文明開化~古きに尋ね、旧きを改める時代~

時代が明治へと移り、「御一新」の世をむかえると、政府は租税・徴兵・宗教・教育などの新しい制度を採り入れ、近代国家としての体裁を整えはじめます。開港場横浜を囲む武相地域は、横浜経由でもちこまれた文物や情報にいちはやく接し、大きな社会の変化にさらされました。
そうしたなか、地域リーダーの多くは幕末以来の不安定な世情のなかで乱れた治安や秩序を、儒教や国学といった自らの素養に照らしつつ、たてなおすことに尽力しました。また、人びとの価値観・常識や生活習慣のうち、新しい時代にそぐわないものを「野蛮」とみなし、「文明」へと導く役割も担います。地域リーダーたちは、時代の狭間に生じたさまざまな地域的課題ととり組むなかで、次第にその先にある国家的課題を意識するようになります。

徴兵対象者の調査
1873(明治6) 年12月 忠生・高梨理由家
明治5(1872)年の徴兵告諭、翌年の徴兵令公布によって、国民皆兵に基づく近代的軍隊の創設が始まります。そのため適齢者となる17歳から40歳までの男子の名簿が作成され、その中から徴兵検査を経て入営する者が決められました。

「小野郷学」の扁額
明治4(1871)年ころ 小野路町・小島資料館
安岡良亮揮毫。明治4年のはじめ、郷学校設立を奨励する神奈川県の方針を知った石阪昌孝・小島為政・橋本政直らによって、小野郷学は創設されました。会頭を石阪と橋本、教師を小島と中溝昌弘が務め、2月5日に野津田村(現町田市)の華厳院で開校しています。

『泰西勧善訓蒙』
明治4(1871)年9月刊 忠生・高梨理由家
二書房発行、箕作麟祥訳。フランス人学士のボンヌが小学児童向けに勧善を説いた書物の翻訳で、3巻構成です。天に対する務めにはじまり、自己・他者・家族に対する接し方、国家に対する租税納入や兵役の義務、自由権や所有権などについての解説がほどこされています。

4県会での活動~つどい、つながる地域リーダー~

1879(明治12)年、各府県に地方議会が設けられました。神奈川県にも県会が開設され、初代の議長には石阪昌孝が就いています。
県会は、選挙によって各郡から選ばれた県会議員が、県政に関する議論をかさねる場です。この選挙と議会は、さまざまな制約をともなってはいたものの、従来望むべくもなかった地域リーダーの政治参加を可能にし、新たな経験をもたらしました。また、県会議員となった武相各地の地域リーダーが、県会で自らの考えを表明し、議論によって政治意識を高めたことは、彼ら自身の政治的成長や、県会でのつながりを活かした県域規模のネットワークづくりを促しました。こうした経験が、以降、県会議員経験者を中心に展開される武相の自由民権運動の礎となったのです。

第1回神奈川県会に出席した県議たち
1879(明治12)年4月(推定) 『神奈川県会史』第一巻より
第1回神奈川県会の閉会時に撮られたと思われます。

「南多摩郡県会議員投票用紙」
明治10年代(推定) 当館
南多摩郡が、県議選で発行した投票用紙です。上段に被選人(候補者)の住所・氏名、下段に選挙人(投票者)の住所・氏名・年齢を記入することになっています。当時の選挙は、記名投票でした。

明治16年度郡部会の議席番号表
1883(明治16)年 相原町・青木克子家
神奈川県会では、予算編成の都合から、1881年6月の臨時県会の際、区部会と郡部会が組織されます。これにより、横浜区(1889年4月より横浜市)とそれ以外の郡選出の議員は、別の部会で活動する場面が生じることとなりました。

5結社の時代~議論する場の誕生~

明治10年代から、武相各地で結社がつくられ、活動をはじめます。それは、幕末から明治初年の急激な社会の変化や地域の混乱に向きあい、欧米諸国の文物を採り入れながら、新しい社会をつくり出そうとする模索でもありました。なかでも、欧米諸国の制度や思想、とりわけ立憲制度やその基になっている天賦人権思想に関心をもつ結社が多く生まれました。
結社の多くは、社員が相談しながらつくった規則で、主義や目的、その実現に向けた活動方法、社員のあるべき姿などを定めています。活動方法では、多くの結社が定期的な演説・討論会の開催を採り入れています。社員が、自分の考えを整理して議論することで、知識を増やし、思想を高めようとしたのです。武相の自由民権運動は、こうした結社の活動からはじまりました。

「責善会規則」
1878(明治11)年5月 野津田町・村野浩太郎家
橋本政直を中心に、石阪昌孝・小島守政らが参加しました。「責善」は“善い行いをしているかを問いただす”という意味です。責善会は、討論によりメンバー同士の誤った行動を指摘し、議論することによって、地域秩序の再建をめざした結社でした。

「融貫社規則」
1881(明治14)年11月 金井・草薙邦明家
1881年11月3日の規則確定会議の結果できた規則で、“民権の拡張”“立憲政体の基礎確立”という目的を掲げています。融貫社は、メンバーが南多摩郡を中心に周辺数郡にわたる広域結社でした。翌82年の初めころからは、自由党の支部として活動するようになります。

6国会と憲法の要求~立憲政体をめざして~

自由民権運動の第一の目的は、政府に対して「立憲政体」の実現を要求することでした。立憲政体とは、選挙で選ばれた代表者による国会で国の政治方針を決定する権限を、憲法が国民に保障している体制のことです。つまり、自由民権運動は国の政治に関心を持ち、その決定に参加したいと考えた人びとによる、国民の参政権を要求することを主眼においた運動といえます。
1880(明治13)年には、全国的に国会開設運動とそれにともなう憲法起草運動が盛り上がりました。武相地域でも、相州の二万余人が署名して国会開設の建白書を、北多摩郡本宿村(現府中市)出身の松村弁治郎も個人で建白書を提出しています。また五日市では、千葉卓三郎により、205条にも及ぶ憲法草案「日本帝国憲法」(=通称「五日市憲法」)が編まれました。

「注進蔵六段目悖り加護」
『団団珍聞』第165号 1880(明治13)年6月19日
相州の国会開設建白書提出とそれを止めようとする野村県令を風刺しています。

松村弁治郎(青年時代)
文久元年12月20日(1862年1月19日)~1906(明治39)年2月2日 多摩近代史研究会提供
北多摩郡本宿村(現府中市)出身。大阪鎮台姫路分営の伍長だった1880(明治13)年に、国会開設建白書を元老院に提出しました。86年の静岡事件に関わり逮捕され、脱走の罪で処罰された後、91年に北海道開拓を呼びかけて入植し、道議会議員を2期務めました。

「日本帝国憲法」(通称「五日市憲法」) 東京都有形文化財(1983年5月6日指定)
1881(明治14)年春~夏ころ 小金井市・深澤篤彦家(あきる野市中央図書館保管)
1968年に、西多摩郡五日市町(現あきる野市)の深沢家土蔵で発見されました。起草者は、五日市に身を寄せていた宮城県出身の千葉卓三郎で、深沢権八ら地元の民権家の協力があったと考えられています。205条にも及ぶ条文をはじめ、人権への細かい配慮などが特徴です。[複製]

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