自由民権資料館の利用方法・紹介
利用のしかた
常設展示・企画展示ともに無料です。
閲覧室・休憩コーナーの図書は自由に閲覧できます。
図書の館外貸出はしていません。
古文書等の閲覧を希望するときは、事務室で閲覧等申請書を提出して下さい。
複写サービスは、費用(1枚10円)をいただきます。
自由民権資料館の紹介
町田市立自由民権資料館の特色
「自由民権運動」を柱にすえたテーマ館として、町田を中心に、多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究した成果で常設展示や企画展示を行います。
また、紀要『自由民権』誌上で、全国各地の民権研究・活動の情報交換の場を設けるとともに、寄せられた民権運動研究論文や文献情報を掲載するなど、自由民権運動研究のネットワークの核になれるよう努めています。
さらに町田市域に関する歴史資料、市民活動から生まれた会誌(会報)、自費出版の刊行物なども収集閲覧できるようにし、町田市の歴史系情報センターを目指しています。
自由民権運動とは
明治維新から10年あまり、すでに明治天皇は公議輿論政治の実現や立憲政体の採用を約束していましたが、いっこうに政治参加の権利は認められませんでした。憲法もなければ、国会もない、というのが国民の置かれていた状況だったのです。
しかし国民には、租税負担や徴兵の義務は課せられていました。報国という観念もしばしば強調され、人びとが愛国心をもつことも奨励されました。
自由民権運動とは、一方的に義務が強制され、権利の行使が極端に制限されていた時代に、憲法を立て、国会を開いて国民の権利を保証し、国民の能動性を引き出すことによって後進国日本の危機を打開しようとする、全国的な政治運動・思想運動として展開します。また参政権を行使するには、それにふさわしい政治的見識をはぐくむことが大切で、集会・結社・思想、言論・出版の自由が必要でしたが、そこに国家が強権をもって介入することに反対し、抵抗したのも自由民権運動でした。
多摩はその拠点となった地域の一つです。とくに、地域上層の富裕な農商民が運動のリーダーとなっていたという点で、大きな特徴をもっていました。
〈自由〉や〈民権〉という言葉が人びとに新鮮な感動を与え、内に秘めた活力を呼び起こし、多くの人びとを新しい社会と国家の創造に駆り立てていくのです。
町田の自由民権運動
多摩地域は1893(明治26)年まで神奈川県に属していました。神奈川県は、武蔵国6郡と相模国9郡からなり、民権運動は当初、武蔵と相模に分かれていました。
ただ、石阪昌孝や青木正太郎など町田市域の民権家たちは、両地域を結び付けることに熱心でした。市域は、武蔵では辺境に位置しますが、相模との国境に接し、県下の平野部ではほぼ〈ヘソ〉に位置していたからなのでしょう、〈武蔵の辺境〉を〈武相自由民権運動の中心〉にしてしまうエネルギーにあふれていたのです。
活気に満ちた市域はまた、多くの青年民権家を生みました。石阪公歴や若林美之助、若林高之亮、村野常右衛門などです。青年時代に民権の洗礼を受けた若者たちの生涯は、それぞれのドラマを持っていて魅力的です。文学者北村透谷が、革命運動にのめり込み、石阪昌孝の長女、美那との恋愛に心を焦がしたのも、これら青年民権家たちとの交流の中でのことでした。
「自由民権運動」を柱にすえたテーマ館として、町田を中心に、多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究した成果で常設展示や企画展示を行います。
また、紀要『自由民権』誌上で、全国各地の民権研究・活動の情報交換の場を設けるとともに、寄せられた民権運動研究論文や文献情報を掲載するなど、自由民権運動研究のネットワークの核になれるよう努めています。
さらに町田市域に関する歴史資料、市民活動から生まれた会誌(会報)、自費出版の刊行物なども収集閲覧できるようにし、町田市の歴史系情報センターを目指しています。
自由民権運動とは
明治維新から10年あまり、すでに明治天皇は公議輿論政治の実現や立憲政体の採用を約束していましたが、いっこうに政治参加の権利は認められませんでした。憲法もなければ、国会もない、というのが国民の置かれていた状況だったのです。
しかし国民には、租税負担や徴兵の義務は課せられていました。報国という観念もしばしば強調され、人びとが愛国心をもつことも奨励されました。
自由民権運動とは、一方的に義務が強制され、権利の行使が極端に制限されていた時代に、憲法を立て、国会を開いて国民の権利を保証し、国民の能動性を引き出すことによって後進国日本の危機を打開しようとする、全国的な政治運動・思想運動として展開します。また参政権を行使するには、それにふさわしい政治的見識をはぐくむことが大切で、集会・結社・思想、言論・出版の自由が必要でしたが、そこに国家が強権をもって介入することに反対し、抵抗したのも自由民権運動でした。
多摩はその拠点となった地域の一つです。とくに、地域上層の富裕な農商民が運動のリーダーとなっていたという点で、大きな特徴をもっていました。
〈自由〉や〈民権〉という言葉が人びとに新鮮な感動を与え、内に秘めた活力を呼び起こし、多くの人びとを新しい社会と国家の創造に駆り立てていくのです。
町田の自由民権運動
多摩地域は1893(明治26)年まで神奈川県に属していました。神奈川県は、武蔵国6郡と相模国9郡からなり、民権運動は当初、武蔵と相模に分かれていました。
ただ、石阪昌孝や青木正太郎など町田市域の民権家たちは、両地域を結び付けることに熱心でした。市域は、武蔵では辺境に位置しますが、相模との国境に接し、県下の平野部ではほぼ〈ヘソ〉に位置していたからなのでしょう、〈武蔵の辺境〉を〈武相自由民権運動の中心〉にしてしまうエネルギーにあふれていたのです。
活気に満ちた市域はまた、多くの青年民権家を生みました。石阪公歴や若林美之助、若林高之亮、村野常右衛門などです。青年時代に民権の洗礼を受けた若者たちの生涯は、それぞれのドラマを持っていて魅力的です。文学者北村透谷が、革命運動にのめり込み、石阪昌孝の長女、美那との恋愛に心を焦がしたのも、これら青年民権家たちとの交流の中でのことでした。
この情報は
生涯学習部 生涯学習課
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